2024年09月04日
中根英登さん(自転車競技 ロードレース)インタビュー【第1回】
「ここで、ひとつに。」、今回は、自転車ロードレースの元トップアスリート中根英登さん(34)の登場です。
本場ヨーロッパのイタリア、フランス、スペインなどを転戦し、現在は愛知県のプロチーム「愛三工業レーシングチーム」で専任アドバイザーとして後進を育成しています。
自他ともに認める「負けず嫌い」の性格で最高峰の舞台に登り詰めた中根さんですが、競技を始めたきっかけは高校時代にハマったマンガだそう。
2026年に地元で開催されるアジア競技大会への想いや、ロードレースの魅力についてお話を聞き、計2回の記事でお届けします。
取材・構成は、中野祐紀と澤木誠矢が担当しました。
第2回は、アジア大会出場のご経験と、地元開催への想いについて聞きます。
※年齢は取材時のものです。
本場ヨーロッパのイタリア、フランス、スペインなどを転戦し、現在は愛知県のプロチーム「愛三工業レーシングチーム」で専任アドバイザーとして後進を育成しています。
自他ともに認める「負けず嫌い」の性格で最高峰の舞台に登り詰めた中根さんですが、競技を始めたきっかけは高校時代にハマったマンガだそう。
2026年に地元で開催されるアジア競技大会への想いや、ロードレースの魅力についてお話を聞き、計2回の記事でお届けします。
■「Over Drive」がきっかけ
―自転車競技との出会いを教えてください。
小さいころから高校3年生まで、学校の部活動とか街のクラブチームでずっとサッカーばっかりやっていました。高校2年生の冬くらいだと思いますが、自転車ロードレースを扱った「Over Drive(オーバードライヴ)」というマンガが流行っていて、それを読んだのがきっかけですかね。サッカー部の仲間3人で一緒に「ちょっとやってみようよ」と言って。サッカー部はやめずに、毎日の部活が終わった後にもう1回、今度は自転車の練習も始めました。
―すさまじい体力ですね。
ははは。インターハイ予選の県大会が半年後にあったので、部活登録をして出ようぜ、となって、2つの部を掛け持ちする形にしました。インターハイは学校公認の部活に所属していないと出られないので、ある先生にお願いして顧問に就いてもらって創部しました。そのまま県大会の個人種目で優勝して、インターハイに出られました。サッカーのおかげで基礎体力があったので、それがだいぶ活きました。僕はシャトルランが得意で、持久力も瞬発力もあったんですね。
―半年でインターハイ出られると思ってチャレンジしたのでしょうか。
そんなに深くも考えずに。「勝てるでしょ」となめていたところもあったんですけど(笑)
もちろんサッカーもすごく好きだったので真剣にやっていました。でも、高校生の年代になると分かるじゃないですか。これは、自分はプロサッカー選手には手が届かないな、と。全国大会に出るとなると、サッカーや野球は突破していかなきゃいけないライバルも多いですし。
―自転車競技との出会いを教えてください。
小さいころから高校3年生まで、学校の部活動とか街のクラブチームでずっとサッカーばっかりやっていました。高校2年生の冬くらいだと思いますが、自転車ロードレースを扱った「Over Drive(オーバードライヴ)」というマンガが流行っていて、それを読んだのがきっかけですかね。サッカー部の仲間3人で一緒に「ちょっとやってみようよ」と言って。サッカー部はやめずに、毎日の部活が終わった後にもう1回、今度は自転車の練習も始めました。
―すさまじい体力ですね。
ははは。インターハイ予選の県大会が半年後にあったので、部活登録をして出ようぜ、となって、2つの部を掛け持ちする形にしました。インターハイは学校公認の部活に所属していないと出られないので、ある先生にお願いして顧問に就いてもらって創部しました。そのまま県大会の個人種目で優勝して、インターハイに出られました。サッカーのおかげで基礎体力があったので、それがだいぶ活きました。僕はシャトルランが得意で、持久力も瞬発力もあったんですね。
―半年でインターハイ出られると思ってチャレンジしたのでしょうか。
そんなに深くも考えずに。「勝てるでしょ」となめていたところもあったんですけど(笑)
もちろんサッカーもすごく好きだったので真剣にやっていました。でも、高校生の年代になると分かるじゃないですか。これは、自分はプロサッカー選手には手が届かないな、と。全国大会に出るとなると、サッカーや野球は突破していかなきゃいけないライバルも多いですし。
■「自転車はやりたくない」から…
―どんなお子さんだったのか、教えてください。
小学校の時も、そこらへんをひたすら自転車で走り回っていました。運動が大好きで、どこにでもサッカーボールを持って行って遊んでいました。そういえば、小さいころから自転車で遠くに行くのが好きでしたね。名古屋駅の方にすごくスパイクの安いスポーツショップがあって、中学生のころには天白区の自宅から友達と一緒に行っていました。父親もガッツリこっちの業界の、大学生の時に日本代表になった自転車ロードの選手だったので、自転車は身近にありました。ただ、なんとなく距離を置いていたというか、「親と一緒の競技はやりたくない」という思いはあったような気がします。
―距離を置いていたのに、高校生の時に自転車の道に。
あれよあれよといううちにこっちに入ってっちゃいましたね。まあ多分、父親は内心喜んでたんじゃないかと思います。高校生の時に「ロードやりたい」と言った時に、本来は高額な自転車ですが、中古のロードバイクを父親が準備してくれました。
。
父親には「やるんだったら本気でやれよ」と言われました。僕も負けず嫌いだったので「やってやるよ」というつもりで始めましたね。
―インターハイの後、どのようにトップアスリートに向けて歩んで行ったのか教えてください。
実は、大学以降も自転車をやるとは思っていませんでした。ただ、インターハイで11位に入ったら、自分の行きたかった大学から「自転車部の選手として、どう?」とお誘いいただけました。普通に受験するつもりだったので、「まさか。ラッキー!」と思って、ありがたくスポーツ推薦で入学しました。さっさと自転車をやめて、まだ好きだったサッカー部に入りなおそうかな…と、ちょっと考えたのは秘密です(笑)
―どんなお子さんだったのか、教えてください。
小学校の時も、そこらへんをひたすら自転車で走り回っていました。運動が大好きで、どこにでもサッカーボールを持って行って遊んでいました。そういえば、小さいころから自転車で遠くに行くのが好きでしたね。名古屋駅の方にすごくスパイクの安いスポーツショップがあって、中学生のころには天白区の自宅から友達と一緒に行っていました。父親もガッツリこっちの業界の、大学生の時に日本代表になった自転車ロードの選手だったので、自転車は身近にありました。ただ、なんとなく距離を置いていたというか、「親と一緒の競技はやりたくない」という思いはあったような気がします。
―距離を置いていたのに、高校生の時に自転車の道に。
あれよあれよといううちにこっちに入ってっちゃいましたね。まあ多分、父親は内心喜んでたんじゃないかと思います。高校生の時に「ロードやりたい」と言った時に、本来は高額な自転車ですが、中古のロードバイクを父親が準備してくれました。
。
父親には「やるんだったら本気でやれよ」と言われました。僕も負けず嫌いだったので「やってやるよ」というつもりで始めましたね。
―インターハイの後、どのようにトップアスリートに向けて歩んで行ったのか教えてください。
実は、大学以降も自転車をやるとは思っていませんでした。ただ、インターハイで11位に入ったら、自分の行きたかった大学から「自転車部の選手として、どう?」とお誘いいただけました。普通に受験するつもりだったので、「まさか。ラッキー!」と思って、ありがたくスポーツ推薦で入学しました。さっさと自転車をやめて、まだ好きだったサッカー部に入りなおそうかな…と、ちょっと考えたのは秘密です(笑)
■ヨーロッパ遠征で火が着いた
―プロに向けてのターニングポイントはいつでしょうか。
大学1年生、入学してすぐの大学の全国大会で入賞できてしまって、天狗になりました。その結果をもって、ベルギーとオランダを舞台にしたヨーロッパ遠征に連れてってもらえる企画があって。アマチュアのレースを転戦したのですが、タイムの「足切り」で1つも完走できなくて衝撃を受けました。レベルが違いすぎたのと、自転車ロードレースという競技そのものが、日本で行われているものと全然違う。スピードも、密集度も、展開の仕方も、コースレイアウトも…。そこで「上のレベルの人って、こういうものか」と思い知って、そこが僕の目標になりました。日本に戻ってきても、シンプルに「強くなりたい」という思いを強く持って頑張れるようになりましたね。
―かなわないレベルを目の当たりにして諦めるのではなく、闘志を奮い立たせたのですね。
そうでしたね。今はほとんどないと思いますけど、当時はアジア人に対する風当たりが強く残っている部分があって、レースではユニフォーム引っ張られたりしていました。そういう空気も闘志に火を着けてくれました。「なめるな」と。
大学3年生の冬、拠点をヨーロッパに置く日本のチームから声をかけてもらって、2012年から、二足の草鞋でプロになりました。
―プロに向けてのターニングポイントはいつでしょうか。
大学1年生、入学してすぐの大学の全国大会で入賞できてしまって、天狗になりました。その結果をもって、ベルギーとオランダを舞台にしたヨーロッパ遠征に連れてってもらえる企画があって。アマチュアのレースを転戦したのですが、タイムの「足切り」で1つも完走できなくて衝撃を受けました。レベルが違いすぎたのと、自転車ロードレースという競技そのものが、日本で行われているものと全然違う。スピードも、密集度も、展開の仕方も、コースレイアウトも…。そこで「上のレベルの人って、こういうものか」と思い知って、そこが僕の目標になりました。日本に戻ってきても、シンプルに「強くなりたい」という思いを強く持って頑張れるようになりましたね。
―かなわないレベルを目の当たりにして諦めるのではなく、闘志を奮い立たせたのですね。
そうでしたね。今はほとんどないと思いますけど、当時はアジア人に対する風当たりが強く残っている部分があって、レースではユニフォーム引っ張られたりしていました。そういう空気も闘志に火を着けてくれました。「なめるな」と。
大学3年生の冬、拠点をヨーロッパに置く日本のチームから声をかけてもらって、2012年から、二足の草鞋でプロになりました。
第2回は、アジア大会出場のご経験と、地元開催への想いについて聞きます。
※年齢は取材時のものです。
中根英登(なかね・ひでと)さんプロフィール 1990年5月2日生まれ。愛知県名古屋市出身、同県東浦町在住。中京大卒。自転車ロードレースのトップ選手としてヨーロッパのプロチームに所属して転戦し、2018年の第18回アジア競技大会(ジャカルタ・パレンバン)で5位入賞を果たした。22年に現役引退。現在は愛三工業レーシングチーム専任アドバイザー。24年のパリオリンピックでは日本代表コーチ。 |