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2024年03月12日

【第一回】努力を続けられた理由は空手時代に培った「苦しいときこそ一歩前へ」の精神のおかげ(東京2020オリンピック バスケットボール女子 銀メダリスト 髙田真希選手)


東京2020オリンピックに出場し、バスケットボール女子日本代表チームのキャプテンとして、見事、銀メダルに輝いた髙田真希選手。

愛知県豊橋市に生まれ、幼い頃から運動が大好きだったという髙田選手は、小学4年生から習い始めた空手で、所属する流派の全国規模の大会において4連覇を果たすなど、無類の強さを誇っていたそうです。そんな髙田選手が空手と並行して、小学5年生のときから部活動として取り組み始めたのがバスケットボールでした。

仲間と喜びや苦しみを分かち合える、チームスポーツの醍醐味を実感したバスケットボール。髙田選手にとって、みんなで和気あいあいとボールを追いかけていたバスケットボールが、勝負の厳しさを含んだ競技スポーツへと変わっていったのは、全国から精鋭が集まる名門高校に進んだ頃から。

第一回のインタビューでは、幼少期から高校時代までにフォーカス。バスケットボールを楽しんでいた小・中学生時代、そして本気でオリンピックをめざすために飛び込んだ強豪校での苦悩。髙田選手のルーツを探ります。






 
Interviewer
幼い頃はどのようなお子さんだったのですか?

髙田真希選手
とにかく外で遊ぶのが大好きな子どもでした。2歳上に兄がいるのですが、兄や兄の友人と一緒に野球やサッカー、バドミントンなど身体を動かす遊びばかりしていました。ただ、人見知りで恥ずかしがり屋だったので、初めて会う人の前ではいつも親の陰に隠れてばかり。自分から積極的にしゃべりかけたり、友だちの輪に飛び込んだりすることが苦手で、遊びを通していつの間にか打ち解けていくという感じでした。

Interviewer
幼少期から身長は高かったのですか?

髙田真希選手
そうですね。背の順はいつも一番後ろでした。ただ父は170cmくらい、母は160cmちょっとなので、それほど高身長ではないんですよ。兄は178cmなので決して低くはないのですが、いつしか私が追い抜いてしまっていました。

Interviewer
初めて取り組んだスポーツは?

髙田真希選手
小学4年生のときに空手を習い始めました。両親が自分の身を守れるようにと護身術にもなる武道系の習い事を探していたときに、偶然自宅の目の前に空手の道場ができたんです。最初はそれほど気乗りしなかったのですが、体験してみたらすごく楽しくて。中学3年生まで続けました。

Interviewer
空手の腕前も相当ハイレベルだったそうですね。

髙田真希選手
負けず嫌いだったこともあり、見る見る上達して黒帯まで行きました。出場する大会はほとんど負け知らずで、所属していた流派の全国区の大会では常に優勝していたと思います。






 
Interviewer
空手をやっていたことでバスケットボールに活きることはありますか?

髙田真希選手
体幹の強さなど身体的な基礎は、空手で培われた部分も大きいと思います。でもそれ以上に、挨拶に始まって挨拶に終わるという礼儀の心や、メンタル面を養えたことが財産ですね。特に、空手をやっていたときの「苦しいときこそ一歩前へ」という教えは、バスケットボールの練習や試合で辛い局面に陥ったときなどに、今でも自分を奮い立たせる原動力になっています。

Interviewer
バスケットボールとの出会いは、どのようなきっかけだったのですか?

髙田真希選手
小学5年生から始めた部活動でした。通っていた小学校は、シーズンスポーツといって春から夏、秋から冬という2つのシーズンに分けて部活動を選ぶスタイルだったんです。バスケットボールはその春夏の種目として選択しました。1年の内のほんの数カ月間だけ、楽しくボールを使って遊んでいるというレベルでしたね。







 
Interviewer
バスケットボールの面白さを感じるようになったのは?

髙田真希選手
中学生になり、通年の部活動として本格的にバスケットボールに打ち込むようになってからです。当時は空手も続けていたのですが、自分の頑張りや力量がそのまま勝敗に影響する個人競技ならではのやりがいを感じつつも、バスケットボールを始めてからは、チームスポーツならではの感覚をすごく新鮮に感じました。
一つの目標に向かってチームで団結して挑み、勝った喜びも負けた悔しさも、みんなで分かち合えることがうれしかったのを覚えています。

Interviewer
高校は、全国屈指のバスケットボール強豪校へ進学されました。

髙田真希選手
中学時代は県大会にすら手が届かないレベルだったので、周囲の大人の中には、全寮制の強豪校へ進学することを心配する声もあったんです。
ただ、私の中で決め手になったのは中学2年生のときにテレビで目にした2004年アテネオリンピックでした。そのときのバスケットボールの試合や選手たちの勇姿を見て、「私もバスケットボールで日本代表に入ってオリンピックに出場したい」という思いが強くなったんです。そのためには日本トップレベルの高校に入るのが近道だと考えて入学を決意しました。

Interviewer
高校3年生のときに全国大会で三冠を達成するなど数々のタイトルを獲得し、輝かしい成績を残されました。

髙田真希選手
確かに結果的には良い思い出もたくさんありますが、高校時代を振り返ると、苦しい記憶が真っ先に思い浮かびます。
入学当初、全国トップクラスの精鋭ぞろいという環境は、弱小中学校から入学した私にとって未知の世界。練習中に飛び交う専門用語も理解できず、トレーニングの流れや動き方一つにしても初めてのことだらけでした。「オリンピック選手になりたい」という一心から、厳しいことは覚悟の上で入学したものの、バスケットボール人生の中で唯一、辞めたいと思った時期でした。

Interviewer
大きな壁にぶつかりながらも、どのようにその困難を乗り越えたのですか?

髙田真希選手
周囲の心配を振り切って自分の意志で選んだ道なのだから、絶対に途中で投げ出さないという意地があったのだと思います。体育館に隣接した寮で生活していたので、夕飯の後に一人体育館へ戻り、その日できなかったことを反復練習。わからないことはチームメイトにすぐ確認する。とにかくできないことを一つひとつクリアして、みんなに付いていくだけで必死でした。




 
Interviewer
周囲に認められるようになったのは、いつ頃からですか?

髙田真希選手
高校2年生くらいだと思います。1年生の間、とにかく地道に日々コツコツと取り組む中で、自分の長所が少しずつ見えてきたんです。
猛者が集まる中でも、ゴール下でボールを取るリバウンドだけは負けないという自信が芽生え始めて、リバウンドという武器に磨きをかけていきました。もちろん基礎的な部分の鍛錬は続けつつ、得意な部分の強化に励んでいたら、いつしか周囲からも私の強みとして認めてもらえるようになったんです。その頃から、少しずつ試合の出場機会が増えていきました。

Interviewer
高校時代の経験から得た学びとは?

髙田真希選手
どんなに苦しくて何をしたら良いか見失ったときにも、常に挑み続けることです。立ち止まっていては前に進めません。もがきながらでも、間違いかもしれないと思っても、とにかく行動してみることで状況を変えることができる。空手を通して学んだ「苦しいときこそ一歩前へ」の精神を忘れなかったおかげで、努力を続けられたのだと思います。






 

高校時代を振り返ると、苦しい記憶が真っ先に思い浮かびます。それでも努力を続けられたのは、周囲の心配を振り切って自分の意志で選んだ道なのだから、絶対に途中で投げ出さないという意地があったから。

猛者が集まる中でも自信のあったリバウンドに磨きをかけることで、周囲からも強みとして認めてもらえるようになりました。





非凡な体格と身体能力を遺憾なく発揮し、空手やバスケットボールなど楽しみながらスポーツに打ち込んでいた小・中学生時代の髙田選手。中学2年生のときにテレビ画面を通して目にしたオリンピックの舞台に憧れ、バスケットボールの強豪高校への進学を決意します。

しかし、ライバルでもあるチームメイトの中でレギュラーの座を獲得するまでの道のりは、「バスケットボール人生の中で唯一、辞めたいと思った時期だった」と語るほど苦境の連続。高校3年生で全国大会三冠達成という輝かしい実績に到達するまでの間には、空手を通して学んだ「苦しいときこそ一歩前へ」の精神を胸に続けた地道な努力があったのです。


<第二回 2024年3月19日(火曜日)掲載記事につづく>