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2024年01月16日

【第一回】泣きながら泳いだ幼少期。くじけそうな時は、仲間や家族の存在が支えに(東京2020オリンピック・第19回アジア競技大会 競泳男子 バタフライ日本代表 川本武史選手)

東京2020オリンピックをはじめ、数々の国際大会に参戦し、日本を代表するスイマーの一人として水泳界をリードする川本武史選手。愛知県に生まれ、兄の影響でスイミングスクールに通い始めますが、最初は水が大嫌いでいつも泣いてばかりだったそうです。そんな川本選手がトップスイマーへと上り詰めていくターニングポイントは、どこにあったのでしょうか。
第一回のインタビューでは、川本選手の幼少期から大学時代までのお話をうかがいながら、その強さのルーツを紐解きます。




 
Interviewer
幼い頃はどのようなお子さんだったのですか?

川本武史選手
ひと言でいえば内弁慶な性格でした。家にいる時は明るく賑やかな子どもだったのですが、外に出ると恥ずかしくて引っ込み思案になってしまうタイプでした。幼稚園に通い始めた時も、周りの子と打ち解けるまで時間がかかりました。

Interviewer
水泳を始めたのは何歳の時ですか?

川本武史選手
3歳か4歳の時です。兄が水泳を習っていたので、一緒にスイミングスクールに通い始めたのですが、とにかく水が嫌いでした。水に入りたがらないから、先生にずっと抱っこされたまま1日のレッスンが終わるような感じだったので、先生も手を焼いていたと思います。




 
Interviewer
他にチャレンジしたスポーツはありますか?

川本武史選手
幼稚園の時に体操教室に入ったり、少しサッカーをしてみたりという記憶はありますが、おそらくごく短期間のことなので、経験したとは言えないですね。それほどスポーツが好きな方ではなくて、どちらかといえばインドア派でした。家で絵を描いたり、習字に励んだりする方が好きでした。

Interviewer
小学1年生の頃から選手コースに進んだそうですね。

川本武史選手
クロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎという4泳法ができるようになると、自動的に選手コースへ進む権利が得られるという仕組みだったと思います。選手コースになると格段に練習時間が増えて、それに比例して良い記録が出たり、優勝したりと結果が出るようになりました。好成績が出た時はやはりうれしかったですね。

ただ内弁慶の性格は全然変わっていなかったです。他校のスイミングスクールと合同合宿した時なんて、慣れないプールで深くて足も届かないし、周りは年上の選手ばかり。ゴーグルに涙をいっぱい溜めて、泣きながらレッスンを受けていた記憶があります。




 
Interviewer
高校に入ってからはさらに水泳漬けの日々になったのですか?

川本武史選手
中学校時代から1週間に4~5日は泳いでいて、高校に入学してからは朝練も加わったので、週に10回くらいはプールに入っていましたね。練習量の違いももちろんですが、高校入学以来、メンタル的に大きな変化が生まれました。高校、大学になると学校対抗の勝敗が大きなウエイトを占めるので、仲間と一緒に戦うという意識が芽生えたんです。中学までの「個人競技」から「団体競技」へと意識が変わったことは、僕にとってすごくインパクトがありました。みんなと一致団結して一つの目標に向かって頑張るという気持ちが高まることは、確実にモチベーションにもつながりました。

Interviewer
高校時代までは背泳ぎをメインにされていましたが、バタフライに転向したきっかけは?

川本武史選手
高校までは背泳ぎ中心だったのですが、大学時代からバタフライの練習を本格的に始めました。
背泳ぎについては幼い頃から継続して取り組んでいたので、ある意味、自分の成長の幅が予測できるようになっていたんです。一方のバタフライは、それまで本腰を入れて練習したことがなかったので、自分としても未知数でした。まだ伸びしろがあるんじゃないかなという期待から、練習を始めました。記録的にも、バタフライの方が世界トップクラスとのタイム差が僅差だったという理由も大きかったです。

Interviewer
大学生になってから、新たな種目にチャレンジすることに抵抗はなかったのでしょうか?

川本武史選手
なかったです。水泳って実は結構、年齢を経てからトレーニングを始めた選手がトップクラスに食い込んでくるケースも多いんです。高校から水泳を始めて日本代表に選ばれる選手もいますし、高校野球で甲子園に出場しながら、水泳部にも所属して全国大会に出場するような高校生もいます。他のスポーツと両立したり、年齢問わず始められたりするのも水泳ならではの魅力かもしれませんね。




 
Interviewer
水泳を辞めたいと思ったことや、苦境に立ち向かったエピソードがあればお聞かせください。

川本武史選手
大きな挫折が2回あります。一度目は大学4年生の時です。4月に2016年リオデジャネイロオリンピックの予選レースがあったのですが、あと一歩のところでオリンピックへの出場権を逃してしまい、すごく落ち込みました。秋には大学生活最後の大会となるインカレ(日本学生選手権水泳競技大会)を控えていたのですが、あまりのショックに全然泳ぐ気になれなかったんです。でもその時、大学の水泳部の仲間たちがご飯に誘ってくれたり、休みの日に遊びに連れ出してくれたりと励ましてくれました。僕の力が必要だと粘り強く働きかけてくれたおかげで、無事にインカレに出場することができ、仲間には心から感謝しています。その大会では、バタフライと背泳ぎの二冠を達成するなど、大学生活を良い形で締めくくることができました。

Interviewer
2回目の苦難はいつ訪れたのですか?

川本武史選手
社会人1年目の時です。不注意で肘を骨折するという大けがを負ってしまったんです。社会人になり、これまで以上に水泳に打ち込める環境を与えていただいたばかりで、結果を残さなくてはいけないと気合が入っていた矢先のことでした。すごく落ち込みましたし、自己嫌悪にも陥りました。でもそんな時、理学療法士でもある兄が全面的にバックアップしてくれたんです。兄のほかにも、厳しくも愛のある言葉をかけてくれた会社の方、リハビリをサポートしてくれた家族、当時入籍したばかりだった妻の存在など、温かい人たちの思いに触れる中で、気持ちを切り替えて立ち直ることができました。水泳は基本的に個人競技ではありますが、周りの人たちの支えがあって、今の自分があると心から感じます。




 

高校、大学になると学校対抗の勝敗が大きなウエイトを占めるので、仲間と一緒に戦うという意識が芽生えたんです。中学までの「個人競技」から、「団体競技」へと意識が変わったことは、僕にとってすごくインパクトがありました。みんなと一致団結して一つの目標に向かって頑張るという気持ちが高まることは、確実にモチベーションにつながりました。






学生時代から日本を代表するスイマーとして、世界のトップを虎視眈々と狙っていた川本選手。しかし、2016年リオデジャネイロオリンピックの切符を紙一重のところで逃し、社会人1年目の年には、けがにより戦線離脱を余儀なくされるなど苦境が続きました。そんな時、支えとなったのは共に水泳に打ち込んできた仲間や、見守り続けてくれた家族の存在でした。
個人競技として戦っていた水泳が、高校や大学の仲間と出会い、いつしか一致団結して目標に挑む団体競技のような意識へと変わっていったと話す川本選手。水の上では一人で戦っているように見える競泳という種目ですが、励まし合う仲間や支えてくれる家族の存在が、選手として飛躍する大きなターニングポイントになったようです。



<第二回 2024年1月23日(火曜日)掲載記事につづく>