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2023年10月17日

【第一回】かつて共に戦った仲間が自慢できるような選手になって、恩返しをしたい(2018-19年 バレーボール男子元日本代表 都築 仁選手)

恵まれた体格、類まれなる跳躍力を生かした強烈なスパイクが魅力で、エキサイティングなバレーボールの醍醐味を体現する都築 仁選手。

本格的にバレーボールを始めたのは、中学2年生の時と比較的遅めのデビューでありながらも、めきめきと頭角を現し、大学時代には日本代表入りを果たしました。

大学卒業後は、愛知県刈谷市を本拠地とするVリーグの男子バレーボールチーム「ジェイテクトSTINGS」に所属し、エースアタッカーとして活躍しています。

小学校時代は野球に打ち込んでいたという都築選手が、どのようにバレーボールに出会い、夢中になっていったのか。第一回のインタビューでは、バレーボールの道を歩み始めたきっかけや競技の魅力について語ります。




 
Interviewer
幼い頃はどのようなお子さんだったのですか?

都築 仁選手
5歳上と2歳上の姉がいるので、すごく可愛がられて育ちました。末っ子ということもあり、幼少期は甘えん坊だったと思います。小学校時代はやんちゃで、絵に描いたようないたずらっ子でした。先生にも迷惑ばかりかけていて、学校から親宛てによく電話がかかってきていたようです。

Interviewer
小学校時代に転校を経験されたそうですね。

都築 仁選手
小学校5年生の時、名古屋市の同じ区内で引っ越しをしました。小学校4年生まで通っていた学校は、1学年1クラスしかないアットホームな学校だったのですが、転校先はマンモス校。児童数がすごく多い学校でした。

転校が決まった時は環境が変わることに対して不安や抵抗感があったのですが、新しい友だちがたくさんできたので、今思えば良かったかなと思います。何より転校前の学区にある中学校は、バレーボール部がなかったんです。この転校がなければバレーボールに出会うこともなかったので、大きな転機だったような気がします。

Interviewer
幼い頃からずっと身長が高かったのですか?

都築 仁選手
そうですね。小学生の頃から身長は高かったです。中学校に入ってからは1年で10cmくらいずつ、ずっと伸び続けて、中学3年生の時には190cmあったと思います。牛乳が好きだったわけでもなく、野菜嫌いでご飯自体もそんなにたくさん食べるタイプではなかったので、身長の高さはおそらく遺伝だと思います。

Interviewer
スポーツに親しみのある家庭環境だったのですか?

都築 仁選手
父は水泳、母はバドミントンの経験者ですが、腕前は学校の部活レベル。姉は2人とも文化系の部活でしたし、スポーツ一家とかではないですよ。僕自身も、特に運動神経が良い方ではなかったです。

背の高さは父親譲りですね。長身の人って一般的に筋肉が付きにくいとか、身体が重くてあまり跳べないと言われることもありますが、僕の場合は背が高くても筋肉が付く体質でジャンプ力もあったんです。理由はよくわかりませんが、この恵まれた身体のおかげでバレーボール選手としての道を進むことができているので、親にはすごく感謝しています。




 
Interviewer
バレーボールとの出会いは?

都築 仁選手
中学校に入ってからです。小学校時代からずっと野球のクラブチームに入っていたのですが、中学校に入ると、身長の高さに目を付けたバレーボール部の顧問が声を掛けてくれました。最初は野球の練習があったので断っていたのですが、野球がない平日だけでも良いから参加してほしいと言っていただき、入部することにしました。

Interviewer
中学校時代は、野球とバレーボールを掛け持ちしていたのですね。

都築 仁選手
最初は、平日にバレーボール部、週末は野球のクラブチームという生活を続けていました。でも、バレーボールをしている時間の方が長くなり、自分自身でも手応えを感じられるようになると、やはり試合に出たいという気持ちが抑えられなくなってきました。当然、試合は週末に開催されることが多いので、野球を辞めないと出られないというジレンマが続いていましたね。

だからある時、バレーボールに専念して頑張ろうって自分で決意したんです。野球の練習に行く道すがら「よし、今日辞めるって言おう」と自分の中で意思が固まって、親に相談もせずに野球チームを辞めてしまいました。

Interviewer
野球ではなく、バレーボールを選んだ理由は?

都築 仁選手
やはり、アタックが決まった時の爽快感ですね。背が高くて跳躍力があるというだけで、周りからすごく頼りにしてもらえて、点数を入れることによってその期待に応えられた瞬間がうれしかったことを覚えています。

ゲーム全体としても、どんどん点数が動いていくスピード感や展開の速さが楽しくて、野球とは違った面白さを感じました。



 
Interviewer
バレーボールに出会っていなかったら、どんな人生を歩んでいたと思いますか?

都築 仁選手
勉強はそんなに嫌いではなかったので、高校に通って大学へ進学して、企業に就職するという王道を歩んでいたかもしれません。

転校先の学区にあった中学校に、たまたまバレーボール部があったことが運命の分かれ道だったと思います。小学校の時にもし転校していなかったら、バレーボール部の先生が声を掛けてくれなかったら、野球を諦めきれずに両方とも中途半端になっていたら…。一つでも歯車がずれていれば、バレーボール選手としての今の僕はないと思います。

Interviewer
高校は県内屈指のバレーボール強豪校に進学されました。

都築 仁選手
高校のバレーボール部は、バレーボール界のエリート集団という感じでした。幼少期や小学生の頃からバレーボールを続けている選手も多い中で、僕はほぼ初心者。身体的なポテンシャルの高さと将来性を加味して、声を掛けていただいたのだと思いますが、最初は付いていくのが大変でした。

技術も気持ちも追い付かない中で、1年生の頃からレギュラーとして試合に出させていただきました。周囲からの期待を感じていたものの、自分より格段に上手な選手が大勢いる中で試合に出る後ろめたさや、負い目を感じることもありましたね。



 

Interviewer
そのプレッシャーに打ち勝つために、どのように気持ちを切り替えたのですか?

都築 仁選手
高校時代の監督から学んだ教えが大きかったです。僕が試合に出場することで、上級生であっても出られない選手がいますよね。それでもバレーボールが好きで、チームのために一生懸命ボール拾いをしたり、献身的にサポートしてくれたりするわけです。当然その選手のことを応援してくれる家族もいます。

試合に出られない選手が「あいつが出て負けるなら仕方がない」と認めてくれる、観戦に来た家族の方が「あの選手が出るなら納得」と感じられる、そんな選手にならなくてはいけないのだということを学びました。普段から、練習に臨む姿勢や自分自身の人間性にも気を配り、チームの代表として示しがつく選手になることを意識していました。

高校時代の監督の教えは、今でも僕の核になっています。「昔、仁と一緒にプレーしたことがあるんだ」とみんなが自慢できるような、誇りに思えるような良い選手になることが、監督や仲間への恩返しだと思って取り組んでいます。





 

僕が試合に出場することで、出られない選手がいるわけですから、その選手が「あいつが出て負けるなら仕方がない」と認めてくれるような選手になることを常に意識していました。いつか共に戦った仲間が、一緒にプレーした経験を自慢したくなるような選手になりたいと思っています。



中学2年生という少し遅いスタートながら、日本バレーボール界の新星として、瞬く間に注目を集める選手へと駆け上がった都築選手。「バレーボール選手になれた理由は、身長が高かったからです」と謙遜するものの、バレーボールに対する情熱と、共に戦う仲間へのリスペクトの思いが伝わってきました。

第二回では、大学時代に留学したイタリアプロチームでの経験、国際大会での秘話などをお届けします。


<第二回 2023年10月24日(火曜日)掲載記事につづく>