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2022年11月18日

【第二回】国際大会で感じた選手としての目標(アテネオリンピック2004出場 陸上七種競技元日本記録保持者 中田有紀選手)

日本の七種競技の第一人者として君臨し、現役アスリートとして活躍を続けている中田有紀選手。前回は、七種競技との出会いや日本記録の更新時の思い出などを伺いました。
今回は、日本代表として世界レベルの大会に出場した際のエピソードや、2026年に愛知県で開催される第20回アジア競技大会への思いを伺いました。

※写真撮影時のみマスクを外しています。


 
interviewer
国際大会での思い出・エピソードをお伺いしたいのですが、中田選手はどのくらい、海外遠征やトレーニングに出かけていましたか?


中田選手
私はアジア競技大会、アジア選手権、世界選手権、オリンピックと毎年何かの代表で試合には呼んでいただいていました。
トレーニングでは、オリンピック前に冬のドイツに行ったことがあります。
ドイツには冬の間でも、室内で練習ができる設備があり、日本にもこういった設備があったらと、羨ましくも思いました。


interviewer
設備以外にも日本とドイツの違いがありましたか?


中田選手
日本と異なる点は、コーチと選手の距離が近く、家族ぐるみの付き合いをしていたことです。女子選手たちがカップケーキを焼いてきて、練習場でコーチと一緒にコーヒーを飲む、アットホームな雰囲気がありました。

当時、ドイツで陸上の指導法を勉強してきたコーチから指導を受けていたので、練習自体のギャップは大きく感じませんでした。しかし、日本とは違う厳しさはありましたね。
また、はじめて見る練習器具もあり、各自がいろいろな種目を自由に練習できる環境が日本とは大きく違う点でした。
ドイツの選手層は厚くハイレベルです。その要因として、ドイツでは陸上の最初の入り口が混成競技なのです。体の小さな男子が砲丸を投げる練習をしている場面に遭遇しました。そのような場面に間近で触れることができ、非常に勉強になりました。日本でも、そのように様々な種目に触れる機会があるといいですよね。


 
interviewer
中田選手の日本代表としての海外遠征デビューはいつ頃でしたか?


中田選手
大学2年生のときに行ったアジアジュニア選手権が、初めて日本代表として出場した海外遠征でした。
そのときは、インドのニューデリーが会場でした。


interviewer
その時の思い出は何かありますか?


中田選手
大変だったので、たくさんあります! (笑い)
まずひとつめは、当時インドでデング熱が流行っていて、試合が2か月先送りになったことです。試合まで期間が空いた分、調整をするのが難しかったですね。
ほかには、今となったら笑い話なのですが、現地の空港からバス乗り場まで移動しているときに「荷物を持ってあげるよ!」と声を掛けてくれた方からチップを求められたり、バスの上に荷物を「ほいほいっ」と積み上げられたり、ホテルのエレベーターが壊れたりで、いろいろ衝撃的でした(笑い)
「食事」についても学びになりました。
私はもともと好き嫌いがないのですが、現地にある食べ物で栄養を自分で摂らないといけないのが大変でしたね。
生の野菜やフルーツは食べられなかったので、ビタミンがなかなか摂れなくて。
「食事は、普通にあると思って海外遠征に行ったらダメだ」と、学びになりました。

試合中で一番大変だったのが、ドーピングの検査です。
通常、7種目終えた後に検査が行われます。この時は、1日目の4種目を終えて声を掛けられました。初日は競技を終えたら、2日目のためにホテルに帰り準備をするのですが、検査のためそのまま2時間ほど競技場に留まりました。
あのとき以来、そういった経験をしたことがないので、「あのドーピングの検査はなんだったんだろう…」と思います (笑い)


 
interviewer
初めての海外遠征でそれは大変でしたね。
では、たくさんの国際大会経験の中で、特に思い出に残っている(印象的な)大会はありますか?


中田選手
アテネオリンピックの後に大阪で行われた世界陸上競技選手権大会(以降、大阪世界陸上)です。


interviewer
その大会が思い出に残っているのはなぜでしょうか?


中田選手
もちろんアテネオリンピックも、はじめて世界を知った大会だったのでインパクトは大きかったのですが、選手としての意識が大きく変わったのは大阪世界陸上でしたね。

その大会で、私は100m男子のスーパースター「ウサイン・ボルト選手」が走る少し前に、800メートルを走るスケジュールでした。満員の会場が4万人の声援で文字通り「揺れて」いました。
そのときのトラックからの光景が本当にすさまじく「この素晴らしさを、たくさんの方に知ってほしい」と本気で思いました。
その経験が、わたしの今の原動力にもなっています。
それまでは、自分の競技力を伸ばすことに重きを置いていたのですが、「陸上のファンを増やしたい」、「子どもたちに陸上のおもしろさを知ってもらいたい」と意識し始めるきっかけとなった大会でした。


interviewer
それは素晴らしい経験ですね。
では、海外で開催された大会で思い出に残っている大会はありますか? 


中田選手
アテネオリンピックはやはり特別な大会でした。
当時は、世界というものを何も知らずに出場し、はじめて体験して、2日間の競技の間に、オリンピックの迫力や世界の七種競技を直に感じた大会でした。
序盤の2種目が抜群に上手くいって、「このままいける!」と思いきや、5種目目で大きな失敗もしてしまって…。本当にギリギリのところで戦っていたのがオリンピックでした。
失敗から立て直すことで最後は充実感ある大会になりましたが、記録と結果を残したい一心で取り組んできた競技生活を振り返ったときに、「私はこれから、何のために陸上に取り組んでいけばいいんだろう」と考えるきっかけにもなった大会でした。


 
interviewer
中田選手はアジア競技大会にも3回出場されていますが、それぞれの思い出を教えてもらえますでしょうか?


中田選手
私が初めてアジア競技大会に出場したのは2002年の釜山大会でした。その時は5位という結果だったのですが、選手村が印象に残っています。
自身初めて選手村を経験したのですが、食事もおいしくて、居心地も雰囲気も良かったです。
現地の方がネイルをしてくれるスペースがあったりと、おもてなしの心を感じました。


interviewer
2010年の広州での大会は2位と素晴らしい結果を残されていますが、何か思い出に残っていることはありますか?


中田選手
広州は、空港から会場やホテルに行くまでに装飾のフラッグが多くて、街全体がお出迎えしてくれているのが伝わりました。
街全体がアジア競技大会一色になっていると、選手側も気持ちのスイッチが入ります。
街が大会に力を入れてくれていたら嬉しいですし、そういったところは選手にも伝わってきますね。


interviewer
2006年に出場されたドーハ大会はどうでしたか? 


中田選手
ドーハ大会は結果として4位という成績だったのですが、実は体調があまりよくなかったのです。そのせいで、残念ながら、街など周りを見る余裕がなかったです…。
ただ、その中でも巨大で環境が整ったスタジアムで、大勢の観客の中でプレーできたのは思い出に強く残っています。
お国柄なのかもしれませんが、観客の男性比率が多かった気がします。


interviewer
アジア競技大会をいくつもご経験されたなかで、2026 愛知・名古屋大会がどのような大会になると良いと思いますか?


中田選手
たくさんの方に観にきてもらいたいです。
あとは、大会をきっかけに何かがスタートするといいなと思います。地元の子どもたちが、運動に触れる行事を作って気軽にスポーツができるとか。例えば、アジア競技大会で使われた会場で、地元の子どもたちが年に一度必ず100メートルを走る機会ができたりとか。


 

アジア競技大会の期間が終わったら「終わり」ではなく、開催する地域に、何が残るかが2026 愛知・名古屋大会の求められる成果だとも考えています。私もアスリートとして良い大会作りのサポートをしていきたいと思います!


第三回 2022年11月25日(金曜日)掲載記事につづく>


【第一回】七種競技との出会いと日本新記録(アテネオリンピック2004出場 陸上七種競技元日本記録保持者 中田有紀選手)
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