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2022年11月11日

【第一回】七種競技との出会いと日本新記録(アテネオリンピック2004出場 陸上七種競技元日本記録保持者 中田有紀選手)

皆さんは、陸上競技の「七種競技」と言う種目のことをご存知でしょうか。
女子七種競技の勝者はクイーン・オブ・アスリートと称えられます。
その種目は、1日目に「100mハードル」、「走高跳」、「砲丸投」、「200m」、2日目に「走幅跳」、「やり投」、「800m」と、多岐に渡る能力が求められます。
今回は、アテネオリンピックに出場し、日本選手権9連覇・自身の日本記録を幾度も更新する偉業を達成した「日本のクイーン・オブ・アスリート」中田有紀さん(以降、中田選手)にお話を伺いました。
七種競技との出会いから、世界大会の経験・そして指導者として感じることや第20回アジア競技大会について興味深いお話をお届けします。

※写真撮影時のみマスクを外しています。


 
interviewer
中田選手のニックネームが「カメ」さんとのことですが、由来は? 


中田選手
これは20代の時のニックネームで、今は呼ばれることもないですね (笑い)
体を鍛えていた私の背筋がカメの甲羅のようだったことと、七種競技の最終種目800メートルを、もがきながら走っている姿を見ていた友人に「カメに似ている」と言われたのがきっかけです。
性格的なところは、あまりのんびりとしていないので全然カメとは違うのですが、当時は見た目が似ているということで愛称として呼ばれていました。


interviewer
中田選手と言えば、勝者がクイーン・オブ・アスリートと称される七種競技ですが、この競技との出会いについて教えてください。


中田選手
混成競技との出会いは中学生の時に所属していた部活動でした。
高跳びをやりたくて陸上部に入り、その高跳びが入っている混成競技(走高跳、100m、砲丸投げ)を始めたのがきっかけです。
高校では、走高跳に特に力を入れて取組み、サブ種目として走り幅跳びや七種競技にもチャレンジしました。
大学では、自分に合っている種目はなんだろうと模索する時期に入り、自分の強みを探していましたが、行きついたのは混成競技でした。

七種競技をずっと続けようと決めたのは、大学4年生の時です。一番大きなきっかけになったのは、ドイツから帰国したコーチとの出会いでした。
このコーチとの出会いは大きかったと思います。もし出会えなければ、違った選択をしていたかもしれませんね。


 
interviewer
日本新記録を出した時はどのような気持ちだったのでしょうか?


中田選手
やはり初めて日本記録を更新した時がとても印象的です。嬉しさよりも「自分の殻を破れた」という達成感が沸き上がりました。

日本記録を更新するまでは、肝心な時に勝てず代表に選ばれなかったり、あと1センチの差で決勝に行けなかったりと、ベストなパフォーマンスができず、「変えられない、結果が出せない」モヤモヤとした時期が続いていました。
そんな中、「最後の種目800メートルで自己ベストを更新したら優勝できる」という状況で挑んだ試合で、自己ベストと日本記録が更新できました。その時、「殻を破った、やっと変われた!」と感じました。


interviewer
その、最後の種目800メートルに挑む心境を詳しくお話いただけますか?


中田選手
800メートルを走る前に、自分の名前をアナウンスされて注目される中、スタート位置に立つんですが、逃げ出したいようなすごい怖い気持ちと「やってやるぞ!」という気持ちの葛藤がありました。
その葛藤の中での自己ベスト、日本新記録だったので、思えばこの時の経験が今後の選手人生における勝負強さを得られたきっかけですね。
他選手の結果が悪くて優勝したわけではなく、自分のパフォーマンスで結果を出せたのが大きな自信にもなりました。


 
interviewer
2004年に日本新記録を出したときの心境はいかがでしょうか?


中田選手
2004年が一番良い記録を出せたのですが、これがオリンピックの選考会の時でした。当時はその選考会が終わった後、それまでの成績が出場基準に足りていなかったので、オリンピックには行けないと思っていました。ですから記録が出た時も、そこまで「嬉しい!」という気持ちになれませんでした(笑い)


interviewer
とてもシビアな世界ですね。
また、去年この記録は17年ぶりに山﨑有紀選手が更新しましたが、どのようなお気持ちですか?


中田選手
若い層の選手が育ってきているので、率直にうれしいと思いました!
山﨑選手は私が30代のとき同じフィールドで一緒にプレーをした時期もありました。
この時は、日本記録保持者として、パフォーマンス以外の面でも彼女たちに何か感じてもらいたいと意識をしていたので、次世代の選手が活躍しているのが素直にうれしいです。
日本記録は更新していかないと世界には近づいていけません。
これをきっかけにどんどん記録更新がされていってほしいですし、日本のレベルアップを願います。


 
interviewer
中田選手は京都府出身ですが、愛知県を活動拠点にされている理由について教えてください。


中田選手
一番は「環境」です。私は大学進学で愛知県に来ましたが、コーチや練習場など整った環境があったので、他の土地に行くという選択肢はありませんでした。
だから「愛知県でやっていく」と決めたというよりも、自然と今に至るという感じですね。


interviewer
コーチとの出会いはやはり大きかったですか?


中田選手
はい、とても大きいですね。
七種競技でやっていこうと気持ちが固まった大学4年生のときに、本場ドイツで長く混成競技に携わってこられたコーチに出会えたのは、選手人生における大きなきっかけのひとつとなりました。
この時、自分からコーチに指導をお願いしにいったのですが、コーチからは「3年で結果を出さなければ解消をする」という話をされました。その3年後に、はっきりと「3年で結果が出たから続けよう」という話はなかったのですが、コーチとは20年ほどの付き合いになりました。
コーチは残念ながら亡くなられているのですが、この出会いがなければ私の競技人生はまた大きく変わっていたと思います。


 

そんなコーチとの出会いや日本新記録を出した時の経験を次世代選手に伝えつつ、これからも現役選手として人生を歩んでいきたいと思っています。


<第二回 2022年11月18日(金曜日)掲載記事につづく>


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